Hotel Le Bois des Chambres & Restaurant Le Grand Chaume

アンリ=アメデ・ド・ブロイ公

published at 26/10/2022

1862年にアカデミーフランセーズ会員となり、1873年と1877年にマクマオン大統領より首相に任命されたブロイ公爵ジャック=ヴィクトル=アルベールの息子、アンリ=アメデ・ド・ブロイ公は、騎兵大尉として1875年から1890年まで軍職に就きました。彼の妻は、この職業のせいで夫が不在であることに絶えず不満を訴えていました。妻に執拗に説得されて軍を退役することになったのは恐らく間違いないでしょう。退役後、ブロイ公はさまざまな学問に興味を持つと同時に、ショーモンのような大規模な領地を管理するうえでの重要な課題に取り組みます。

こうした取り組みは、以下のように段階的に行われました :

1875年~1900年:建築家ポール=エルネスト・サンソンに城の修復・近代化を依頼。城の傷んだ石材はひとつひとつ取り除かれ、新しいものと交換されました。1877年、ポール=エルネスト・サンソンは、当時ヨーロッパで最も豪華で近代的な厩舎の建造に着手しました。

こうした大規模な改修計画の第二段階として1875年に始まったのが、賃貸借契約金の値下がりとこの地方の農業経営の悪化に伴う農地の買い取りです。こうして、領地の面積は、当初の1025ヘクタールから、ブロイ公が死去した1917年にはおよそ2500ヘクタールにのぼりました。

改修計画の第三段階は、1884年から造園家アンリ・デュシェーヌ(1841-1902年)が手掛けた、建造物(給水棟、犬たちの墓地、丸太造りの橋)を含む大庭園です。

最後に、1903年から1913年にかけて、ブロイ公は建築家マルセル・ボワイにモデル農場の整備を委託します。牛飼いと荷馬車引きの住居、自動車置き場、ロバ小屋、耕作器具置き場、豚舎などからなる、合理化された近代的な作りでした。この工事は10年続きますが、完工には至りませんでした。

アンリ=アメデ・ド・ブロイ公、気管支肺炎のために68歳でこの世を去りました。1917年11月6日、息子のジャック・ド・ブロイ(1878-1974年)が、妻に宛てた手紙で、父親の死をめぐる自分の気持ちを次のように書いています:『公妃(アメデ・ド・ブロイ公妃)は、父の死とともにすべてを失った。善良で心優しい、理想の夫でもあった父。妻の幸福に自分の一生を捧げ、妻のためだけに生きた人。』一週間後の1917年11月13日火曜日、ブロイ公の遺体はショーモン城に運ばれ、礼拝堂に仮安置されてから、ショーモンの墓地にある一族の墓に埋葬されました。

 

著名な現代人:王子夫妻の招待客

王子夫妻は、素晴らしいパーティーやレセプションを開催するのが好きです。また、通常、15人ほどの招待客が城に数週間滞在します。この夫妻は、ヨーロッパの偉大な支配者を迎え入れました。つまり、スペインの女王イザベラ2世またはポルトガルの国王、そして女優のサラ・ ベルナールやマルグリット・デヴァルなどの有名な芸術家です。これらの権威ある招待客とは別に、ド・ブロイ王女は、彼女が「親密なスタッフ」と呼ぶ親しい友人の輪を維持しています。その中には、彼女の2人の親友である伯爵夫人のブランシュ・ド・クレルモン=トネールとモナコ公妃アリスも含まれています。1人目はブロイ公妃の多くの旅に同行し、特に虎を狩るアジアでの旅行に同行します。それほど危険ではない活動が彼女を2人目の者と結びつけており、彼女は蘭の温室の美しさを楽しむことに喜びを感じています。